中村春二今村繁三岩崎小弥太成蹊大学の歴史History成蹊大学は、1912(明治45)年に創立された成蹊実務学校を源流としています。成蹊実務学校は教育者 中村春二により創立され、後の1925(大正14)年に創設された旧制高等学校(七年制)が、戦後の学制改革で現在の成蹊大学となり、高等教育機関としての姿を確立しました。個性を尊重し生徒一人ひとりと向き合って教育を行った中村の教育理念と、大学の前身となる旧制高等学校のリベラルな学風を受け継ぎ、成蹊大学は5学部と大学院を擁する総合大学に発展しました。創立者 中村春二と教育理念中村は、東京帝国大学文科大学在学中に曹洞宗第一中学校の講師を務め、教育に携わることへの喜びを感じ、大学卒業後に教育者となる道を選びました。また一方で、当時の詰め込み教育や個性を無視した画一教育に疑問を感じ、「社会に貢献する人間を育てよう。知識を身につけるだけでなく、人格的にも優れた人間を育てたい」──そのためには生徒一人ひとりの個性を引き出し、自ら進んで学ぼうとする人間を育てるべきであると考えました。この理想の教育を実践するため、親友であった今村繁三、岩崎小弥太の支援を受け、学生塾・成蹊園、そして成蹊実務学校を創立したのです。この中村の思いは100年の時を超え、今も受け継がれています。中村春二の教育を支え続けた2人の親友中村には2人の親友がいました。今村繁三と岩崎小弥太です。3人は高等師範学校附属学校尋常中学科在学中に出会い、今村と岩崎は中村が理想とする教育の実現を物心両面で支え続けました。今村は中学卒業後、イギリスのリース校に入学。その後、ケンブリッジ大学に進み、帰国後25歳で今村銀行の頭取に就任しました。社会事業、とりわけ育英事業の必要性を感じていた今村は、中村の教育理念に共鳴し、学生塾・成蹊園の経済的基盤をつくりました。岩崎は三菱の二代目社長・岩崎弥之助の長男として生まれ、第一高等学校から東京帝国大学に進んだ後、ケンブリッジ大学に留学。国家繁栄の基礎は教育にあると感じた岩崎は、帰国後に三菱合資会社の副社長、社長を歴任する一方で、成蹊学園の教育事業に参画しました。2人は、長年にわたり成蹊教育の発展に寄与し続けました。建学の精神学生塾・成蹊園開塾(命名は翌年)成蹊実務学校を池袋の地に創立成蹊中学校開校成蹊小学校開校成蹊実業専門学校・成蹊女学校開校校地を池袋から吉祥寺に移転成蹊高等学校(旧制・七年制)開校成蹊中学校(新制)開校成蹊高等学校(新制)開校工学部開設文学部開設経済学部・法学部開設(政治経済学部を改組)成蹊大学 アジア太平洋研究センター設置成蹊大学 情報処理センター設置成蹊大学 国際交流センター設置成蹊大学開学50周年学園情報センター設置(2002年大学情報処理センターを統合)武蔵野市との連携により開設された「武蔵野地域自由大学」に参加成蹊学園 国際教育センター設置(大学国際交流センターを改組)理工学部開設(工学部を改組)情報図書館開館400m競技場・ラグビー場改修(「けやきグラウンド」と命名)「成蹊教養カリキュラム」導入成蹊大学 情報センター設置(学園情報センターを改組)成蹊学園創立100周年成蹊大学 ボランティア支援センター設置成蹊大学 高等教育開発・支援センター設置(情報センターを改組)成蹊学園 サステナビリティ教育研究センター設置経済学部・経営学部開設(経済学部を改組)成蹊大学 Society 5.0研究所設置理工学部理工学科開設(1学科5専攻へ改組)成蹊大学開学政治経済学部開設1906明治391912明治451914大正31915大正41917大正61924大正131925大正141947昭和221948昭和231949昭和241962昭和371965昭和401968昭和431981昭和561993平成51999平成112003平成152004平成162005平成172006平成182009平成212010平成222012平成242014平成262018平成302020令和22022令和4003受け継がれる伝統と理念「個性の尊重」「品性の陶冶」「勤労の実践」
元のページ ../index.html#5